この記事は、2009年から2011年頃まで、趣味のピアノ教室調和講師のかとうだいすけが、まぐまぐにて配信していたメールマガジン「ピアノ入門以前」に記載したものです。

2010/06/15

前回は、レギナ・スメンジャンカ氏がジェヴィエツキ教授について語ったインタビューを中心にご紹介いたしました。

今回は、ジェヴィエツキ教授自身のインタビューを中心にご紹介いたします。

最初に、前回同様、参考にしました資料をご紹介いたします。

参考DVD

ワルシャワの覇者 5 ジェヴィエツキ教授の思い出
ポーランド語翻訳:楠原祥子 学習研究社 2001年

参考書籍

ニューグローヴ世界音楽大事典 7 講談社 1993年

ショパンをどのように弾きますか? レギナ・スメンジャンカ著
大迫ちえみ訳 田村進監修 ヤマハミュージックメディア 2009年

このメールマガジンの内容は、私が上記の資料を参考にして、私なりに何かを感じた部分を中心としたものです。

従って、私個人の恣意的な意図が含まれてしまうことについては、避けることができません。

客観的でもなければ、絶対正しいでもない、主観的な内容であることを、最初にお詫び申し上げます。

可能であれば、是非とも参考DVDの本編をご覧になられますことをおすすめいたします。

DVDの中にある『ジェヴィエツキ教授が語るショパン・コンクール』というチャプターを見たことが、このメールマガジンでジェヴィエツキ教授についてご紹介しようと思ったきっかけでした。

このチャプターでは、インタビュアーがジェヴィエツキ教授の門下生達が毎回ショパン・コンクールに入賞を果たしていることを紹介した後、成功の秘訣についてジェヴィエツキ教授に質問をし、それにジェヴィエツキ教授が答えるという内容となっています。

入賞した門下生達について、ジェヴィエツキ教授は、彼らには才能があったということを語った後、「私の指導の原則を守り自分の信念に基づいた演奏を貫きました」と語っています。

ごく当たり前のように感じられる一言ですが、まさに、この一言の中に成功の秘訣が凝縮されているのではないか、ということを私は感じました。

私は、ジェヴィエツキ教授のこの言葉を次のように解釈しました。

指導の原則を守る、簡単に言いますと、先生のおっしゃるとおりにする、ということだけではなく、その上に、自分の信念に基づいた演奏を貫く、ということが必要である。

昨今の、私が知っている範囲内の日本のピアノ教育を見ますと、一から十まで先生のおっしゃるとおりにすることがピアノを弾くということであり、演奏者自身の信念などもってのほかである、という風潮があるように感じられます。

演奏者自身の信念などというものは、全くの自分勝手なことであり、けしからんという風潮があるように感じられます。

しいて言いますと、一から十まで先生のおっしゃるとおりにする、ということが信念となっているのではないか、ということを私は感じます。

ジェヴィエツキ教授のおっしゃっている自分の信念というのは、果たしてそのような信念なのでしょうか。

先の一言に続けて、ジェヴィエツキ教授は、門下生達が技術面または感情面のどちらにも偏らないように見守ってきたと語っています。

続いて出てくるのが、前回のメールマガジンでもご紹介しました「芸術の原動力は感情であると確信しています」という言葉です。

これに続いて、ジェヴィエツキ教授は「芸術は学問であるという人々には全く賛成できません」と語っています。

昨今の、ショパンの意図に基づく演奏、というような言葉を見る度に、私はショパン演奏が学問化しているように思えてならないのですが、ショパンコンクールの創設に関わったメンバーの一人でもあるジェヴィエツキ教授がこのように語っているというのは、本当に意外でした。

今日のショパン・コンクールをご覧になられたとしたら、ジェヴィエツキ教授はどのようにお感じになられるのでしょうか。

そして、音楽についての言及が行われた後、ジェヴィエツキ教授は「成功の秘訣はショパンを理解したうえで演奏法はひとつではないと認める事です」と語っています。

学問化が進む昨今のショパン演奏においては、唯一絶対の正しいショパンを作り上げようとしているように、私には感じられます。

しかし、ここで一つ考えなければならないことがあるのではないかと思います。

それは、私たちの生きている今の時代に、これが唯一絶対の正しいショパンであるということを確定させた場合、ショパンの作品から得られる想像力もまたそこで終りになるということです。

ダンテの神曲、ゲーテのファウスト、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟、夏目漱石の我輩は猫である、など、過去に書かれた名作の数々が、時代背景も何もかもが異なるであろう現代においてもなお生き続けているのは、そこに無限の可能性があるからではないでしょうか。

こんな風に読める、あんな風にも読める、そんな読み方もあったのか、という具合に、無限の読み方があるからこそ、作品が普遍性を獲得し、永く読み継がれてきたのではないでしょうか。

ところが、ショパンの弾き方はこれが唯一絶対である、ということになってしまいますと、ショパンの作品はこれでおしまいということになってしまいます。

作品を分析したり、文献学的にテキストを批判したりするのは、全て作曲家の意思を尊重し、作曲家に敬意を表するためであるということが語られていますが、その結果、ショパンの弾き方を一つに限定してしまうというのは、本当に作曲家に敬意を表する姿勢と言えるのでしょうか。

ショパンの作品が無限の弾き方の可能性を持っていることを明らかにすることによって、ショパンの作品に普遍性と永続性を獲得させるというのであれば、作曲家に敬意を表することになるのではないかと私は思いますが、ショパンの作品の弾き方を一つに限定してしまうことは、ショパンの作品から普遍性と永続性を失わせる以外の何ものでもないのではないかということを思います。

作品の普遍性と永続性を奪っておいて、作曲家の尊重も何もあったものではないのではないでしょうか。

私の個人的な憤りはこのくらいにして、ジェヴィエツキ教授のお話に戻ります。

インタビューの最後に、ジェヴィエツキ教授は次のように語っています。

「しかし 私の主張を否定した人もいるのです
でも 私は彼らを悪くは思いません
なぜなら 彼らもショパンの真実を
追求する途中にいたのですから」

ジェヴィエツキ教授のお人柄には、ただただ頭が下がるばかりです。

昨今の、私が知っている範囲内の日本のピアノ教育では、寛容性がどんどん失われているように感じられます。

学者センセイのおっしゃる通りになっていない演奏はダメ、自分がセンセイから教わったのと同じように弾かれていない演奏はダメ、という具合に、まるでセンセイのおっしゃる通りになっている演奏、自分がセンセイから教わったのと同じように弾かれている演奏は善、それ以外の演奏は全て悪ででもあるかのような姿勢で評価が行われているように、私には感じられます。

昨今の、日本のピアノ教育における閉塞感の一端は、このような寛容性が欠如した姿勢にあるのではないかということを思います。

「成功の秘訣はショパンを理解したうえで演奏法はひとつではないと認める事です」と語るジェヴィエツキ教授の寛容性を、私は見習わなければならないと思いました。

相手に迎合するのでもなく、一方的に自己主張をして相手を拒絶するのでもなく、自分のあり方も、それ以外のあり方も同じ様に認めるという姿勢が、寛容な姿勢につながるのではないかということを、私は想像します。

最後に、スメンジャンカ氏の著書『ショパンをどのように弾きますか?』から著者あとがきの本文中にあるジェヴィエツキ教授の言葉をお借りして、締め括りたいと思います。

“だって、全てショパンが楽譜に書いてくれているよ”

※上記の文章は一個人の経験から生まれた感想と、その感想をもとに作成された文章です。客観的でもなければ、絶対正しいでもない、主観的な内容であることをご了承願います。

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